2009年12月06日

林芙美子もスパイだった

林芙美子もスパイだった



「南の雨」
林 芙美子

今日の雨は明日の雨ならず
沛然と降る夜の雨
音ばかりは快活に降っているけれど
須●にして何かをさらってゆく
このさみしい旅地の雨よ

トツケイが鳴いている
床席に近々と声たてゝ
気味悪き音を抗げるなり

今日の雨はもはやすでに旧雨
思ひ出に消え去る沓かなる雨ならむ
厭々としてつきる事なき夜の雨よ。

『ボルネオ新聞』昭和18年2月5日

林芙美子は1903年12月31日、北九州市に生まれた。広島の女子高校に在学中、学費を得るため、夜は帆布工場で働き、夏は神戸に出稼ぎに行った。この頃から次第に文学の道を志すようになり、「秋沼陽子」の名で『山陽日日新聞』や『備後時事新報』に投稿を始める。1951年6月27日、『主婦の友』誌の「私の食べあるき」という企画の取材で多忙を極め、夜遅く帰宅する。家族と団欒の後、11時過ぎに床に就いたが、間もなく苦しみはじめ、翌28日午前1時過ぎに死去した。林芙美子の代表的な著作は、『放浪記』、『晩菊』、『浮雲』、『めし』などである。

林芙美子は、1942年から1943年の間、マレーシアとインドネシアで任務に就くが、中国においてもペン部隊の一員として任務に当たった経験がある。戦上へと派遣された数少ない女性のうちの一人であった。1942年11月16日、シンガポールに到着したのち、ジョホールバルと対国の国境まで調査のため巡り歩いた。12月下旬スラバヤへ行き、その後カリマンタン、スマトラおよびフィリピンまで足を延ばした。ジャワ島滞在中、マランのトラワスにある村長の自宅に宿泊した。戦場において任務中、戦う兵士たちを励ますため、多くの記事を書き、1943年5月の中旬、フィリピンに立ち寄ったのち帰国した。


Sastrawan wanita Jepang terkenal, Hayashi Fumiko (1903-1951) pun pernah datang ke Indonesia sebagai anggota Badan Propaganda Pemerintahan Militer Jepang pada kurun waktu 1942-1943. Selama di wilayah Indonesia ia pernah tinggal di Kalimantan, Sumatra dan Jawa. Di Jawa ia tinggal di Surabaya dan Trawas, Malang. Karya terkenalnya adalah "Horyuki" mengisahkan tentang perjuangan hidup wanita miskin untuk menggapai cita-citanya. Kutipan puisi di atas pernah dimuat dalam "Borneo Shimbun", sebuah Koran Pemerintahan Militer Jepang di Kalimantan pada masa penjajahan Jepang. Dalam puisi itu ia melukiskan suasana Kalimantan saat hujan lebat dan bunyi Tokek yang sering ia dengar disana.

Setelah Jepang kalah perang, ia menyatakan menyesal telah ikut menjadi bagian dari orang-orang yang ikut membantu perang tersebut. Ia aktif menyuarakan penolakan perang di dunia internasional hingga akhir hayatnya.



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